

本来の名は言道。羅城門の前で上句を詠んだところ、鬼が感嘆し下の句を付けたという説話が残る。また、弟子の道真に官位を越されたことに怒って、山へ籠り仙人になったとする説話が残る。結構力持ち。 待望の長男であった通朗を厳しく育てたが、早くに亡くし嘆き悲しんだ良香は、次男の在中へ通朗の分まで愛情を注ぐ。つまり親ばか。羅城門で出会った鬼子、彌彦を家へ連れ帰り在中と遊ばせていた。普段は無表情に近いが酔うと陽気になる。

菅原是善の三男。何かにつけて菅原菅原と言われるのがとても嫌。一応都良香を師としているがあまり敬っていない。むしろなんとなくライバル視している。どうも在中からは嫌われているらしい。

貫之はいとこ。古今和歌集撰者のひとり。のんびりマイペース。

古今和歌集撰者のひとり。大学寮で紀伝道を学んでいた。 漢詩に夢中な在中にまとわりついて和歌を執拗に勧めてくる。在中とは同年生まれ。

良香の次男。官暦は越前権掾が伝わるのみ。渤海使の裴璆と交わり詩を賞された。都氏に誇りを持っている。幼い頃は感情豊かな子であったが、父の死後父の姿を追い求めるようになり、無意識のうちに、良香のように感情を表に出さない性格となる。父は仙人になったのではなく、死んだのだと思っている。道真のことが嫌いである。また、淳茂のことをライバル視している。普段は寡黙なくせに口を開くとストレート。毒舌ともいう。見かけによらずとても力持ち。

越後国一宮彌彦神社の御祭神。鬼であり、自分の名を与えられている彌彦に興味を持っており、彌彦の前にだけ姿を現す。顕現する為に彌彦の姿を借りている。

羅城門の鬼。後の茨木童子。羅城門の前を通った良香が上の句を詠みあげ、下句を考えているところに遭遇する。興味本位で声を掛けたところ、怖がるどころか家に連れていかれる羽目になる。そこで幼い在中と交流をもつ。かつては越後の彌彦神社の稚児であった。良香は越前権介を遙任していたが度々越前へ下っており、その際同行し一度越後へ帰郷している。

道真の孫。門下に保胤、為時、有国等。

勧学会参加者のひとり。菅原雅規の子で、文時の甥にあたる。保胤と同じく西曹に属す。惟成が対策を受ける際、問頭博士を務めている。余談だが彼の菅原孝標の父である。 とてもまじめな性格。

勧学会参加者のひとり。文章生となり、保胤と並び称される。公任の詩歌の師。(生没年不詳だが保胤と同年代と考えられる。) 楽観的な性格だが馬鹿ではない。保胤とよくつるんでいる。

比叡山延暦寺の僧。保胤と深く親交がある。

為時の兄。春宮少進、のち春宮権大進として師貞親王に仕える。為時の兄。春宮少進、のち春宮権大進として師貞親王に仕える。歌人であり公任とも交流がある。

紫式部・惟規の父。菅原文時の弟子で、保胤とは同門にあたる。師貞親王の副侍読を務める。式部丞に任ぜられるが花山天皇退位とともに辞任。後出家。理由としては、子の惟規と紫式部を相次いで亡くした為であるとする説がある。惟規の死に際の為時とのやりとりが『俊頼髄脳』に残っている。 式部ら姉弟の母は彼らが幼い頃に亡くなっているため、姉弟を自分の元で育てている。我が子をとても大事に思っている。具平親王の母とはいとこにあたり、親王邸家司であるため具平とは旧知の仲。ちょっとぬけていて頼りない性格だがやるときはやる。

本名は藤原香子。為時の娘。惟規の双子の惟規とはとても仲がいい。幼少時、為時が惟規に漢籍を教えていたところ、紫式部の方が惟規より早く暗唱してしまったという話が残る。具平親王の家に仕えていたこともあり、具平に対して深い憧憬を抱く。公任に対しては自分勝手なナルシスト野郎という印象。

若くして文章生となり出世。越後守に任じられた父に同行するが赴任先で卒去。 紫式部の双子の弟。優秀な父と姉にコンプレックスを抱いているが姉とはとても仲がいい。理由はわからないがよく公任に睨まれる。

保憲の弟。陰陽の家賀茂に生まれるが家業を捨て文時に師事、紀 伝道を志す。詩と仏教の会「勧学会」の創始者とされる。具平親王の侍読を勤めその思想に大きく影響を与えた。後に出家。 異常の在俗の求仏者。仏教が好きすぎて仏教のこととなるとよく怒りよく泣く、ちょっとした変人として有名。 (生年説が933年以後と943年頃とあり後者で調整を検討中)

保胤の兄。陰陽の頭。わりと短気な性格。賀茂の名にプライドを持っている。よく能宣に絡まれるが相手の方が身分が高いのでとにかく聞き流す努力をしている。

保憲の子。保胤の甥にあたるが年齢はかなり近しい。保胤が苦手とする人物で、天然で空気が読めない。憑き物による二重人格という性質を持つが本人は気が付いていない。鬢も掻かずくたびれた衣服を着た姿の説話が残っているのはこの為である。

村上天皇第七皇子。侍読である保胤から大きく影響を受けた。公任とはいとこであり仲のよい友人。博識で卓越した文才と、広い才芸に通じていた。雅やかで温和な性格だが、政治的には無力であり、道長らの摂関的権力をどこか冷めた目でみている節がある。

具平親王とはいとこで、とても仲がいい。漢詩、和歌、管弦すべてにおいて秀でていた。一見まともになのに自己過信が過ぎる上に自意識過剰な性格に問題あり。紫式部・惟規とははとこにあたる。 ひそかに紫式部に想いをよせているが、式部は具平に計り知れない憧憬の念を抱いている上に弟との仲が良すぎる為に近寄れないでいる。 (しかも自身と具平は大の仲良しときている。救いようがない)

師貞。17歳で即位するが2年足らずで仏門に入り退位。公任と親しい。奇行が目立った父冷泉帝に対する周囲の目を、幼い頃から敏感に感じ取っていた為か、心に深い闇をもつ。明るく人懐こい愛らしい振る舞いとは裏腹に、周囲に一切心を開かない。唯一惟成に対して心を許しているように見えて、惟成には「人の心がわからない」という師貞にとって都合のよい欠点が生んだ絶妙なバランスによって関係が成り立っているというだけの話である。

勧学会草創期メンバーのひとり。師貞親王の東宮学士・侍読を務める。即位後も側近として勢力を振るったが、花山出家とともに仏門に入る。真面目で物静かな人物に見えるが、どこかずれていて人の気持ちをよく理解出来ていない非情な一面もある。

羅城門の鬼=茨木童子。鬼として酒顛童子に手を貸している。頼光の重臣渡辺綱に右腕を斬られることになる。

酒顛童子討伐を命じられた武将。酒顛ももとは人間であるということに内心気が付いているが、彼がその命令に逆らうことはできない。本来冷静で穏やかな性格。

頼光を主としてよく慕っている。羅城門で遭遇した茨木童子と一戦交え、右腕を斬りおとす。よく見ると都在中に瓜二つ。寡黙で警戒心が強い。

頼光四天王の一人。足柄山で公時と出会い、頼光と引き合わせた。橘貞光とも。武将のわりには信心深く案外繊細。

頼光四天王のひとり。弓の名手。捉えどころのない性格だが忠義心はある模様。命令に忠実で非情な一面がある。

頼光四天王の一人。見かけによらず馬鹿力で、足柄山でその力にほれ込んだ貞光にスカウトされる。自身の存在に価値を与えてくれた貞光をよく慕っており、時には迷う貞光を導く存在でもある。子供に見られるのが悩み。

良香の長男で在中の兄。はやくに亡くなっているので、在中は通朗のことは殆ど覚えていない。父に厳しく育てられ優秀であったが、親子としてのコミュニケーションは乏しかった。 <扶桑集の良香の詩『哭児通朗』により存在が確認されるのみ>

大江山に棲む酒豪の鬼。かつては越後国の国上寺の稚児であった。稚児として舞を奉納する為彌彦神社に赴いたとき、後の茨木童子である彌彦と出会う。彌彦からは国上寺からとって「くかみ」と呼ばれている。

勧学会草創期メンバーのひとりで文時門下。藤原兼家の家司となり、惟仲と共に兼家の耳目として活躍する。闇討ちにあったことがある(江談抄)。 猟官気質で花山朝時代には惟成傘下に入ろうとしたことも…自信過剰で他者を見下す性格の為、人を怒らせるのが得意(そんなだから闇討ちにあうんだ)。でも友人に嫌われるのは寂しいのでよくデレ(?)る。惟仲とは何かと対立するため犬猿の仲だと思っている。

大学寮で学び、道真や良香に師事。奇怪小説をよく好み、自身でも「紀家怪異実録」等を著す(散逸)。後世絵巻物の「長谷雄草紙」の主人公として描かれる。 素直で変なプライドがなく、立場や年齢に関係なく人を尊敬できる。争いは苦手で権力には弱い。娯楽が好きで能天気な性格。好奇心旺盛で好きなことには真摯に打ち込めるタイプ。双六が得意。朱雀門で鬼と遭遇している。

道真の五男。早くから大学寮に入り、文章得業生となるが、父の失脚と共に播磨へ左遷される。帰京後渤海掌客使を務め、父道真が交流した裵頲の子、裴璆と交わることとなる。 優秀な上に両親想いの優しい子。感受性豊かでよく泣く。父の子であることを誇りに思っており、学問への努力を惜しまない。いつもどこかが墨で汚れている。鼻炎もちの花粉症。特に梅花粉に弱い。

大学寮に学び、源順に師事。保胤と共に具平親王侍読を務める。勧学 会参加者の一人。生没年不詳だが保胤より少し年長と思われ、延長~承平年間の生まれと推測される。没年は天元初年~5年(978~982)の秋以前。官位に恵まれないことを嘆く詩が度々みられる。師の順は兄弟子の正通ではなく為憲に家集を残したとされる(江談抄)。 とてもネガティブ。周りからは既に芸風だと思われている。あまりにも可哀想だった為か晩年は高麗に渡って仙を得たとか、宰相になったとかいう伝が残る(本朝神仙伝・古今著聞集)。

神祇大副大中臣頼基の子。伊勢祭主、神祇大副と務める。和歌に秀で梨壺の五人に選ばれる。保憲を気に入っている。実はわりと天然。

勧学会参加者のひとり。源順に師事。尊子内親王の為に著した仏道の入門書「三宝絵詞」の中には、勧学会の様子が鮮明に記されている。保胤の日本往生極楽記の空也の項は、為憲の「空也誄」を参考にしたと言われ、両者の関係を見て取れる。「口遊」「世俗諺文」等の啓蒙書の執筆もした。以言の句に感泣し、文場に普段から持ち歩いていた書嚢に頭を入れて泣いたことがある。これを見て感ずる人もいれば、笑う人もいたという(江談抄)。 何を考えているのかが分かりづらい人物で、少し変わったところもある為、人から疑いを持たれやすい。子供好き。不遇を歎く兄弟子の正通を慕っており何かとかまってあげている。

冷泉天皇第二皇女。花山天皇は同母弟にあたる。15歳で円融天皇に入内するがその翌月に内裏が焼亡し、世間からは「火の宮」と呼ばれる。次々に後見を失い、17歳で内裏を退出し落飾した。為憲は尊子内親王のために仏道の入門書である「三宝絵詞」を著し進呈。20歳で若くして没した。保胤が四十九日の願文をしたためている。

橘正通に師事し、紀伝道を学ぶ。始め田口を名乗っていたが後に改姓。対策の判者を務めた際、一度及第したはずの大江時棟の作に対し瑕疵があるとして落第させる。これにより、時棟の養父である大江匡衡と省試論争を起こしたことは有名である(本朝文粋に所収)。文体は古調から採られた古典的なもので新鮮さがないと評される(江談抄)が、保胤曰く斉名の漢詩は月の冴えた夜に半ば古びた檜皮葺の家の御簾の所々外れた部屋で女が筝を弾き澄ましているよう」であり当時は高名な文人の一人であった。扶桑集の編纂者。斉名と以言がともに文章試験を受ける際、以言のみが具平親王から助言を受け事前に改作していた。結果自分のみが落第したことを臨終の時まで悔しがっていた。(江談抄) 当時共に高名とされていた以言をライバル視している。古典的な文体がすきで作にも多く引用している。堅苦しいところがあり言いたいことは絶対言うやつ。間違いをなあなあにするのは嫌。

自由人

大江以言とははとこでとても仲がいい。 匡衡の詩文集「江吏部集」に勧学会の作が残っている。永延元年の有国の詩宴にも呼ばれており勧学会参加者とみていいだろう。

たまにすれてる。 有国と共に勧学会を再興させた。 本朝麗藻の撰者。 高階成忠の子で、藤原兼家の長男・道隆の妻となった高内侍とはきょうだいにあたる。